『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだので、感想を書いてみる。
軽い気持ちで買って読んでみたが、ページの多くを割いて書かれている読書史と労働史が面白かったし勉強になったので、読み終わった後の満足度が非常に高かったことは、最初に伝えておきたい。
本を読む前の私
20代前半の私は、お金を稼いで経済的な不自由を感じない程度の稼ぎや蓄えを作るために、自分の時間のほぼ全てを仕事やスキルアップのための勉強に時間を費やす生活をしていた。
この当時は確かに仕事以外のことに取り組む意欲も余裕もなかった。
しかし、26、27歳くらいである程度困らない蓄えができ、会社員としての給料があれば毎月資産が増え続ける生活スタイルを確立できたことで、「稼がなければ」という強迫観念がかなりなくなった。
自己成長やスキルアップへの執着心が減り、副業もせずに、仕事はきっちり週5日8時間労働で終えるようにしたことで、自由な時間で意識的に仕事以外の物事へ取り組める心と時間の余裕ができるようになった。
例えば、こんなことをやったりした。完全に私の趣味だ。
- 洗車を研究し綺麗な車に乗り続けるコツを身につけた
- 歴史書を読んだりして学校で学ばなかった歴史やストーリーを勉強している
- 御朱印集めを始めてみた
- 書店で目についた本を買って積読をして週末に読んでいる
- 水回りの掃除を研究し綺麗にし続けるコツを身につけた
- 妻の実家でみんなで休みを過ごし、一緒にご飯を食べたり、遠出をしたりできている
なぜこの本を読もうと思ったのか
普通は「本を読みたいが、仕事で余裕がなくて本が読めていない状態」にモヤモヤを抱えている人がその状態を脱するためのヒントを得たいと思ってこの本を手に取るのだと思う。
私もそういう時があったから気持ちがわかる。
しかし、最近の私は本が読めていないことはなかった。むしろ、この本が想定しているであろう対象の人物よりも趣味的な読書をできていると思う。
だけども、この本が対象にしているであろう人物像が、数年前、稼ぐために四六時中全力で働いて、趣味をする余裕すらなかった過去の私と完全に一致しているように思えたから、何となく他人事のように思えなかったのだ。
また、私にはない方向からの考え方があれば知りたいし、他人の考えを知ることで私の内省と言語化をさらに深めるきっかけになればいいなとも思った。
この本で書かれていること
この本では「本を読みたいのに、働いていると本を読めなくなったのはなぜか」について主に考えるが、「本を読めなくなった」を「趣味ができなくなった」のようにより抽象的な問題として捉えて、読者自身の趣味に置き換えて読んで欲しいと言っている。例えば、「好きなバンドのライブに行けなくなった」「家族と過ごせなくなった」など。
筆者は、働いていると本が読めなくなるのは、社会が人々に仕事に対して全力コミットを要求していることが問題だとしている。なので、「全身全霊で仕事をするのをやめて、半身で仕事ができる社会にしよう」と主張している。
現代社会において、立身出世、成功に必要なのは「その場で自分に必要な情報を得て、不必要な情報はノイズとして除外し、自分の行動を変革すること」つまり自己啓発である。としている。
また、筆者は"情報"と"知識"には以下のような違いがあるとしている。
- "情報"="知りたいこと"
- "知識"="知りたいこと" + ノイズ(偶然性)
"情報"は、例えば、インターネットで知りたいことを検索してそれに対して得られる無駄のない情報がそうだ。 一方で、読書をして得る"知識"には、文脈や説明の中で、読者が予期しなかった偶然出会う情報、ノイズがある。
つまり、社会が労働者に全力コミットメントを要求し、現代社会での成功のためには自己啓発が必要であるから、働いているとノイズを処理する必要がある読書(趣味)をする余裕がなくなるのだと。
かなり簡潔にするとこのような主張だと私は解釈している。
読了後考えたこと
私は働くことが比較的好きな方だ。
私自身、経済的成功を求めていた時期があり、その時は確かにスキルアップや自己啓発以外のノイズを頭に入れたり、趣味を楽しむ心理的な余裕がなかった。
そのような過剰な成長を追い求める生活をしていると、自分を自分で過剰に追い込んでいくことになる。外圧からそうさせられているのではなく、私自身がそうなることを望んでいるからだ。「もっと頑張れる」「もっと高みを」そんな出口のないループに陥る。
20代前半は、野心に燃えていたから働きまくってもしんどいとかは思っていなかった。しかし、20代後半に入ると段々としんどいなーと思うようになった。俺の人生ずっとこんなに頑張り続けないといけないのか、どこまで行けば満足できるのか、終わりはあるのか、稼ぐことだけを考えていて幸せなのか、そして、ある程度稼いでもそんなに満たされないな、と。
そして、27歳くらいで資産額が自分の中で一つの大台に達したことで半身とまではいかないが休みを返上してがむしゃらに働くことを私自身が求めなくなり、仕事以外の活動に取り組んでみたり仕事に直結しないノイズを頭に入れる余裕ができた。
すると、どうだろう。
これまでに感じたことがない程の"充足感"を感じるのだ。
お金がなく自分の時間の全てを仕事に捧げていた頃は、私の中で"仕事"が"私"より価値が高かった。"私"が"仕事"に振り回されていたと言って良い。
しかし、蓄えを作ることで"仕事"の価値が下がり、"私"が"仕事"より価値が高くなった。"私"が"仕事"を従える側になったのだ。
私はこのように考える。
人生の充足感は、「自分の人生の時間をどれだけ自分の意思でコントロールできるか」と関係が深いのではないか。
現代社会は、人々に自己実現やより良い生活を求めるよう内発的動機付けをさせ、仕事に全力コミットすることを美化しそれを求める。
より良い生活を求めること自体は資本主義社会においては正常な作用だと思うが、全力コミットメントを求めることは、労働者にとって人生の多くの大切なものを失っているので気を付けなければならない。労働収入は後からでも取り返せるが、その時その年齢でしか作れない人生の思い出を作り損ねるともうチャンスはないからだ。
また、「"ノイズ"を受け入れる余裕がない」には、当然他者の文脈(人生)を受け入れることも意味合いとして含まれている。これは、より社会的に深刻な"結婚"や"出産"といった自分以外の人間を受け入れることすら出来なくなっている問題にも繋がっているのではないか。現代人が"結婚"や"出産"に消極的な背景には、現代人の経済・精神・時間のあらゆる面での余裕のなさが根底にあると思う。また、これらは、男性女性問わず自己犠牲が求められるイベントとして刷り込まれているので、仕事で自己実現をしたい人にとってはさらに消極的になるのは必然だ。
私は思う。
そこまでいろんなものを犠牲にしてまで仕事にコミットメントする必要があるのか。「たかが仕事じゃないか」。それくらいに思うのがちょうど良いのではないか。
筆者は週3日労働と提案しているが、私は残業のしすぎが問題なだけで週5日で良いと思っている。残業をやめ、週40時間労働だ。一時期、週4日労働をしていたが、かなり幸福度が高かった。だが、一般的ではないので難しいだろう。なので、週5日40時間で、残業しないことが現代社会において労働者が現実的に死守できるラインだ。
収入に見合った生活をし、しっかり蓄えることが重要だ。蓄えがあれば精神的余裕が生まれ、残業代で稼ごうとか、副業をして稼ごうとか思わないからだ。趣味が金銭を生み出しているなら良いが、稼ぐための副業では仕事と何ら変わりないので意味がない。政府が副業を国民に勧めているのは、正気の沙汰ではない。本業でしっかり稼げる世の中であるべきだし、そもそも政府自身が国民から税金で吸い上げすぎなのだ。そんな政府が副業を国民に薦めるのは何かのコントなのだろうか。笑えない。
収入が増えても簡単に生活レベルを上げない。生活レベルを上げると簡単には下げられないからだ。困らない程度の生活レベルがあれば十分だ。贅沢は見栄でしかなく、大した価値はない。
他人の贅沢な生活を見て羨ましいと思わない。他人と比較することで目の前の幸せを幸せと思えなくなるからだ。それは不幸でしかない。誰かに羨ましいと思われたくて見栄を張っているんだな、くらいに思えば良い。
そうして生まれた余裕で、他人の人生を受け入れ、仕事以外のことにチャレンジし、大切な人と沢山の思い出を作る。
そこにはきっと諦めることは何もなく、心身共に健やかで豊かで充実した人生になるのではないかと思う。
最後に
私は、仕事が好きだから、仕事を頑張ること自体は否定しないし、人生で仕事を頑張る時があるのもわかっている。しかし、人間が仕事に振り回されているのであれば、それは危険だと思う。
また仕事で自己実現するというのも、内発動機付けによる全力コミットメントに繋がり、仕事の沼に陥るから危ないことは既に述べた。仕事はたかが仕事で収入のためだと割り切るのがちょうど良い。
そういう意識改革が個人にも社会にも必要になってきたのではないかと思う。